文科省の誤算 なぜ「#教師のバトン」はうまくいかなかったのか

学校あれこれ

こんにちは。春名佑紀です。

今春に文科省が打ち出した企画

「#教師のバトン」

まあ、バトンという言葉を使うあたりが教育らしいですよね。

文科省としては、教師の仕事の魅力を発信してもらい、教員志望者を増やしたいという目的で始まった企画。

ところが蓋を開けたら、出てくる出てくる現場の不満。文科省の目論見とは全く逆の結果となってしまいました。

なぜ、この企画はうまくいかなかったのでしょうか?

私なりに検証してみます。

 

文科省が発信したかった「教師の魅力」とは?

何かをやるときは、ある程度どんなことが起こるか推測するものです。

文科省が「#教師のバトン」で出てくると想定していた「教師の仕事の魅力」とは一体どんなものだったのでしょうか?

おそらく

・子どもたちを一緒に成長できるこの仕事にやりがいを感じます。

・できなかったことが「できた!」と目を輝かせる子どもの笑顔に今までの苦労が吹っ飛びました。

・卒業の時に「先生、ありがとう」の言葉が今でも忘れられません。

・卒業生がたまに顔を出してくれると、その後の成長を見ることができるこの仕事のやりがいを感じます。

(※これは個人の空想的感想です。)

 

う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん。

上に挙げたものは教師をやっていての醍醐味でしょう。

多少の違いはあるかもしれませんが、このようなことを感じたことのある先生は多いと思います。

私もそんな先生の一人です。

だから、教師という仕事には、この仕事でないと味わえない魅力があるのです。

これは紛れもない事実です。

学校とはとても稀有な空間で、そこに集まることを希望したわけではない人間の集団が1年という時間を半ば強制的に一緒に過ごすのですが、だからこそ生まれるトラブルや絆があります。

今だに学園ドラマが形を変えて世に送り出されているのは、そういう独特の雰囲気への羨望があるからではないかと思います。

しかし、今、この魅力を感じる前にそのかなり手前で押しつぶされてしまう事案が多すぎるのです。

 

「教師の仕事」に辿り着くまでの険しい道のり

教員が忙しすぎる

これはもう何年も前から言われてきたことですが、実際に学校で働いてみて、「忙しい」の中身があまりにもかけ離れていると実感しました。

ただ「忙しい」なら、他の仕事だっていくらでもあります。

教員の仕事の「忙しい」はちょっと中身が違うのです。

一言で言うと、

教師の仕事の最も大事な部分、授業とは全く関係のない仕事が多いのです。

例えば、授業に関する仕事(業務)を挙げてみましょう。

・児童の実態把握(既習内容の理解度)

・教材研究

・教材・教具の作成

・授業

・評価、検証(ここでの評価は、児童の理解度とその結果から自分の授業に対する評価も含みます。)

厳密に言えば、ここまで一連のサイクルが「授業」です。

1日5時間の授業があるなら、5時間、それ以上の時間をかけてこのことに専念するのか「教師の仕事」です。

しかし、5時間はおろか、5分も授業の準備にかけらないのが現状です。

ここに辿り着くのに、大きな山をいくつも越えないといけないからです。

例えば、会議

会議といっても、そこで何かが決まるわけではなく、報告会に近いものです。

でも、「はい、わかりました」で済むならまだしも、意見を求められ意見を言うと、実はもう管理職と打ち合わせができているので、内容は特に変わることはなく、会議を通してその場の承認を得るというのが会議の目的です。

だから、無駄に時間は長くなり、部や委員会の意見として全体で提案するという体裁を整えるための時間です。

内容にもよりますが、ヘタをすると2時間こんな茶番会議にかかりますから、溜まったもんじゃありません。

 

おっと、このペースで書いていると永遠に無駄な仕事シリーズが出てきてしまうので、今回はこの辺りで。この話はまたどこかで。

と、いう感じで、教師として一番魅了を感じる仕事、授業とそれを通した子どもたちとの触れ合いが、結局一番後回しになっているんです。

でも、授業は毎日ありますよね?つまり、大した準備もできず、毎日中途半端に授業を行う。そうしてうまくいかないことが増えて、疲弊する。

極端なことを言えば、授業の準備をしっかりして、授業で学級経営ができる人であれば、学級は大幅に荒れません。

要点を掴めば、教材研究にそれほど時間をかけずともできてくるようになりますが、若手であれば、それに専念したいと思うのは当然でしょうし、それが必要な時期でもあります。

授業の準備をしっかりやりたいのにできないというフラストレーションを溜めている現場の先生に

「教師の仕事の魅力を教えてください💓」

といったところで、出てくるわけありません。

だって、現場の先生たちがその魅力を取り上げられているようなものなんですから。

小学校においては、もちろん、中学校でも必ずしも授業だけではないかもしれません。

でも、学校の教育活動全体に関わることであったとしても、なかなか時間が取れない中、そんな先生たちに魅力を発信しろというのは、ずいぶん酷な話だなあと思います。

 

「#教師のバトン」を生かすには

皮肉にも、魅力の発信という当初の予定から大幅に変わってしまった「#教師のバトン」

では、この企画は無駄だったのでしょうか?

私は、現場の先生たちの声を吸い上げたという効果はあったと思います。

大事なのはここから。

この悲痛な叫びを無駄にしないためにも、この内容を真摯に受け止めて学校改革のヒントとするべきではないでしょうか?

年々、教員志願者が減り、倍率が下がり、教師の質が云々という話になり、この負のスパイラルがずっと続いています。志願者数の低下は、質が下がるなんて話よりも実はもっと深刻な問題をもたらします。

文科省にももちろん、大胆な学校改革を行ってほしいと思いますし、これは現場にいる先生たちも、自分事として捉えて現状を変えていかなければいけません。

そして何より、世論を動かし日本の学校教育の未来を本気で考えていかないと、教育崩壊は避けられないのではないか、という危機感を感じています。

 

まとめ

ちょっと、今回は思いが強すぎただけに内容がブレブレだったかもしれません。

この問題は根が深く、これからの日本の教育の未来がかかっているといういっても過言ではないと思っています。

現場の疲弊は直接子どもたちの教育内容に響いていきます。

先日、

「宝くじが当たったら、教員を辞めるか非常勤になる」

という投稿に対して、先生にこんなことを言って欲しくないというコメントがついていて考えさせられました。

教育は時に美化されて世に出されるものです。

確かに子どもという未来の可能性を育てることには、魅力もあるし、使命感すら感じることもあります。

でも、教師だって人間です。

使命感やそのやりがいも永遠に湧いて出てくるものではなく、「先生をやっていてよかった」と思うことが1%でもあるからこそ、また次のエネルギーになるのです。

そんな思いを感じることができない今の教育現場は、誰のためにもならないと感じます。

これからも、微力(無力?)ながら、現状を発信していければと思います。

 

今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。

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