こんにちは。春名佑紀です。
前回、学習指導要領について、内容や今までの変遷などを書いてみました。
今回は、最新令和2年4から実施の学習指導要領改訂の目玉、「特別の教科道徳」について書いてみました。
特別の教科 道徳 ~その気になる内容とは
ところで、あなたはご自身が学生時代にやった道徳の内容って覚えていますか?
私はまっっっっっっっっっっっっっっっっっったく覚えていません。
道徳って担任の先生よってかなり温度差が出るものです。
よく、年配の先生で
「今日は○○についての指導で1時間使ったわ、だから道徳ってことで」
なんておっしゃる人もいましたが、道徳を専門にやっている人は週に1回必ず実施していました。
そもそも道徳とは何なのでしょうか?
道徳の前身は、戦前教育の「修身」だと言われています。
当時は、天皇と国家への忠誠を元とするものでした。こういう流れがあるので、「道徳」そのものを毛嫌いしている人も少なくありません。
戦後に修身はなくなり(当たり前だ!)「幸福や理想を目指して共同社会の一員として働く自覚をもたせ、普遍的な国際性をもった人格を形成しようとする」というよくわからない目的をもって、「道徳」が誕生するわけです。
つまり、学校においての人格形成の主軸を担うものとして、1958年に週1時間道徳の授業をすることが決まりました。
最近では「心の教育」なんてことが言われます。
恐らくこの、「人格形成」や「心の教育」という言葉を拡大解釈すると、昔の先生の「説教」も入ってしますのかもしれませんね。
しかし、この「道徳」は、学習指導要領の改訂を繰り返すたびに、その内容を進化させ、とうとう「特別な教科」にまで昇りつめました。
では、「特別な教科」とは一体何でしょうか?
学校において「教科」と名の付くものには、切り離せない条件があります。
それは
「評価」
です。
現在小学校では、10の教科が存在します。あなたは全て言えますか?
国語
算数
社会
理科
生活
音楽
図工
体育
家庭
外国語(今回仲間入り)
の10個です。
この10個に共通しているのは、評価を付けていること。
できた・できないといった3段階の評価を付けて指導要録なる公的文書に書き記します。通知表にも評価が載っています。
(通知表の付け方や見方等についてはまた別の回で)
道徳を教科に格上げする一番のネックはこの「評価」の在り方でした。
子どもの「道徳」としての評価を3段階でつけるのはナンセンスです。そこで、苦肉の策として初見による評価とする代わりに、教科ではなく「特別の」と冠が付いたのです。
こうして、日本初「特別の」教科が誕生しました。
道徳の評価の難しさ
そもそも道徳の授業ではどんなことをしているのでしょうか?
道徳には大きく4つの内容から成り立っていて、その中に学年に応じた内容項目が示されています。
その内容は多岐に渡り、例えば「生命尊重」「友情」「思いやり」「勤労」「感謝」など20個くらいあります。それらを万遍なく行うことが求められています。
先程、年配先生の話を載せましたが、あれが通用しないのは、計画的ではないし、こういう説教は偏りがでるので、授業ではないと捉えられます。
話は逸れましたが、この内容項目にあった教材を使って、子どもたちの考えさせるのが道徳の授業のスタンダードな流れです。
ここで重要なのは、子どもたちが考えることを目標の一つとしてので、子どもの発言や内容には「正解」がないということです。
例を使って説明しましょう。
6年生の道徳で「生命尊重」を扱ったとします。
当然ですが、「自他の命は大事だ!」という内容になるので、子どもたちはそれぞれ「生命」について考えるわけです。
もしこの時、「他人の命は奪ってもよい」と意見を言った子がいたとします。
道徳の授業のあり方からすると、この児童に対して
「君は間違っている!!」
ということはできません。
なぜなら、ここで児童の考え対して、教師が違うという評価を下したら、そもそも「考える」という授業が成立しないからです。
しかし
「そっか、君はそう思っているんだね。」
といってスルーしたら、教師失格です。
この場合、なぜそう思ったのかを掘り下げていく必要があります。
例えば、
「犯罪を犯した人間なら、命を奪ってもいい」
「誰かの命が危険にさらされているのなら、正当防衛だ」
といった、その子なりの理由が出てくるかもしれません。
さて、もし、こんな意見が出てくると、喧々諤々の議論がスタートするでしょう。
まあ、「生命尊重」というテーマだとなかなかここまでの意見は出てこないと思いますが、テーマが「正直・誠実」とかで、「嘘の是非」なんてやると面白いかもしれません。
このように、道徳の授業は、「こうあるべきだ!」というのを教師が一方的に教える授業ではなくて、テーマに沿って、自分の考えや立場を明確にし、意見を言ったり聞いたりしてさらに考えを深めていくという授業なのです。
さて、ここまで聞くと次に出てくるのが「評価」の話です。
道徳の評価には2つの場面が考えられます。
1つは道徳の授業
もう1つは、普段の生活
です。
こちらも一つ例を挙げましょう。
ある2人の児童がいます。
Aさんは、普段から友達思いで、さりげなく困っている友達に対して親切な言葉をかけてあげることができます。でも、あまり積極的な性格ではなく、授業でも、挙手や発言はほとんどありません。表現力も乏しいところがあります。
Bさんは、気が強く、友達に思ったことをズバズバ言ってしまったり、目立ちたがり屋なため、自分よりも目立つ子がいると悪口を言ってしまったりすることがあります。一方、授業は積極的で、言葉を巧みに使い、人を納得させたり共感させたりする表現力をもっています。
さて、先程の評価の場面が「授業」だった場合、評価がいいのはどちらでしょう?
そう、Bさんです。
では、Aさんはどのように評価できるでしょうか?
もう一つの評価場面として「普段の生活」があります。
「親切・思いやり」の授業があったとして、普段から友達に優しいAさんをそこで評価できるでしょうか?
ここは難しいところです。
なぜなら、Aさんの行動が
道徳の授業を通して、行動されたものかどうかの判断ができない
からです。
Aさんの場合、道徳の授業がなくても、きっと友達には優しくできるかもしれません。
教科の評価
→授業によってできたかできないかの評価
となるのです。
実際は、そうでないこともあります。
例えば、塾で勉強した後、学校で習ってその後行ったテストで100点だった場合、学校での授業のおかげで100点だったのかという検証はできません。
でも、学校での授業を経てのテストなので、その場合、評価は良いものとなるでしょう。
同じことが道徳に当てはめることができないからです。
結局のところ、「特別の教科 道徳」に変わり、所見で評価を記入していますが、ほとんどが「道徳の授業」の内容を書いています。
それだけ、この道徳の評価というのは難しいわけです。
では、なぜわざわざ「特別の教科」なんてしたのでしょうか?
継続的に行うから意味のある「道徳」
今まで通り、道徳を「教科」にしなければ「評価」の必要性がない。
おそらく「教科化」のねらいはそこにあったのだと思います。
簡単にいうと、
「評価」をつけるには、授業をやるしかないので、説教で済ませたり、ましてや他の教科に充てたりという道徳の不実施を防ぐ狙いがあったということです。
それでなくても、時間数に追われ、単元が終わらないと焦り、行事に圧迫されて授業時数が取れない中、道徳を毎週行うのは結構苦行です。
毎回違うテーマを時間をかけて教材研究する。
しかも、子どもたちに考えさせるための仕掛けを試行錯誤し、教具などを自作したりする。
そんなことをしていると、他の教科の教材研究ができません。
しかも、道徳の授業を積み重ねることによって、どの程度心を耕せているのか目に見えてわからないというジレンマがあり、手応えを得にくいのです。
仮に、道徳が「いじめ」をなくすためだとして、道徳の授業を毎週していたら「いじめ」が無くなるかというとそんなこともありません。
かといって、「いじめ」が起こったから、道徳が意味がなかったとも言えないわけです。
評価が難しいということは、我々教員が自分の授業の評価をするのが難しいということと同じ意味です。
しかし、道徳は1回の授業で効果が出て、劇的に子どもが変わるものでもないので、結局はコツコツと続けていくしかないし、もしかしたら、遠い未来でその授業が実を結んでいるかもしれません。
そういう気の遠い「特別の教科」が道徳なのです。
まとめ
長くなっちゃいました💦
ちょっと難しい話になってしまいましたが、いかがでしょうか?
お子さんの通知表に道徳の所見評価が通知表に載ってると思いますので、こんな視点で読んでいただけると、その内容がまた違った形で見えてくるのではないでしょうか?
道徳は、日々行う教育活動と似ていて、いつ成果が出るかも、そもそも成果が出るかもわからないブラックボックスのようなものです。
ある日突然、その授業の内容がその子の人生を変えるきっかけになるかもしれないし、気が付かないかもしれません。
道徳も日々あなたが行っている育児・子育ても、そのいつかを夢見て、根気強く続けていることが大切なのかもしれません。
参考になったが嬉しいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
コメント
[…] 最新令和2年改訂に内容、道徳・外国語・プログラミングについては、また詳しくお話をしていきたいと思います。 […]