こんにちは。春名佑紀です。
今年も3月11日がやってきました。
あれから9年。
初任だっが私が、あの日に経験したことや宮城県の被災地へ行った時のことを
全ては書ききれないと思いますが、振り返って、今思うことを書いてみたいと思います。
平成23年3月11日金曜日
2年生の担任
私にとって、初任の1年が終わろうとしている時でした。
1年間、なかなかうまく学級をまとめられず、毎日毎日奔走する日々。
それもやっと終わりが見えてきた時期でした。
その日は、午前中に一度少し大きな地震がありました。教室の電灯が揺れていて、子どもたちもざわざわしていました。珍しく揺れたので、避難訓練の成果なのか、机に隠れては、バタバタとしてなかんなか授業が再開できなかったことを思い出します。
5時間目が終わり下校の時間
私の学校は2時40分が2年生の下校時間です。
私は、この時間に帰りの支度やら帰りの会が終わらず、いつも時間に遅れて下校をさせていました。3時近くなることもありました。
が、この日は珍しく早く終わって、子どもたちも「今日は早いー」などと言いながら帰っていきました。
児童を校門で見送り、教室に戻って掃除をしようと箒を取りに行きました。
隣のクラスの子どもの声が廊下から聞こえてきました。
すると、昼を同じように電灯が大きく揺れ始めました。
次の瞬間、大きな揺れとともに、廊下にいる子どもたちの声が悲鳴のような声に変わりました。
「真ん中に集まって、頭を低くして!!」
廊下の左右にあるロッカーから子どもたちを話、真ん中でしゃがんで頭を守るように声をかけます。隣のクラスは半分が廊下に、半分が教室にいました。隣のクラスの先生が、教室の子たちを見ている間、私は、周りの物が倒れたり落ちたりしてこないか注意しながら、廊下で子どもたちのそばに駆け寄っていました。
まだ6時間目があったので、学校には3年生から6年生と、2年生の一部が残っていました。
すぐに、緊急の放送が入り、全員が校庭に避難しました。
その間も時折、細かく余震が続きます。
下校途中だったうちのクラスの児童が10人ほど学校に戻ってきました。
どうやら、下校途中で近くの壁が崩れたのを見たらしく、怖くて学校に戻ってきたそうです。
それからしばらく、余震が止むのを待っていました。
しかし、余震のたびに、もうすぐ咲きそうに芽を膨らませている桜の木が大きく揺れるので、子どもたちは怖がってしまいました。
そして、あれほど晴れていたのに、急に雨がポツポツ降り始めたので、子どもたちを体育館へ移すことになりました。
体育館はすでに卒業式の練習用にいすが並べられていて、その椅子をたたんで学年ごとに子どもたちを座らせました。
その後、保護者に連絡を取り、順次引き渡しを行う流れになりました。
私は、既に下校した子どもたちの安否を確認しながら、戻ってきた子どもの保護者に連絡をし、迎えに来てもらうようにしました。
最後に残ったのは、うちのクラスでもトップ3に入るやんちゃくんでした。
しかし、いつもの生意気な様子は全く見えず、なかなか親御さんとも連絡がつかず、心配そうにしている彼を見て、さんざん手を焼いたけど、まだ幼い子どもなんだなと妙に納得したのを覚えています。
他の学年も引き渡しが進む中、都市部の交通網は麻痺。
電車も車も全く動かず、最後の児童が引き取られたのは午後11時を回っていたそうです。
東北地方がその時未曾有の被害に見舞われていると知ったのは、自分のクラスの子どもたちの安否が全てわかった6時半ごろでした。
事態が大きく動いたのは翌週の月曜日。
週末にかけて、福島第一原発の爆発によって都内も放射線のホットスポットになるとうわさが流れました。
その後一度も学校に来ず、遠方へ避難する児童もいました。
食材が届かいないため、その日が最後の給食になりました。
今日の給食は、栄養士さんが何とかかき集めた食材で作った最後の給食だよと話したところ、普段は、あれが嫌い、これは嫌とあまり給食を食べない児童が、半べそをかきがながら完食したこともわたしとっては忘れらない思い出です。
こうして、残りの10日ほどは異様な空気の中、初任最後の修了式を迎えることになったのです。
いろいろな意味で忘れることのできない日となった3月11日。
私は去年の夏にやっと、被災地の宮城県へ行くことができました。
私とっては、初任のあの日に、今でも鮮明に覚えているあの日に、この地では何が起こったのか見ておくべきだと思いました。
いくつか震災遺構を訪れましたが、やはり一番心をえぐったのは、石巻市の大川小学校。
私がテレビでこの話を知ったのはだいぶ後になってからだったと思います。
テレビで流れる報道とは全く異なる圧倒的な虚無感が建物の跡から感じられました。
地震が来てから津波が来るまで51分間。
同じとき、ちょうど体育館への避難が、移動していた時間と重なります。
校庭の桜の木を見て、子どもたちが怯えていた時のことを思い出し、大川小にいた子どもたちが、どんな気持ちで校庭にいたのか、と思うと言葉になりません。
今だ仮設住宅での暮らしを余儀なくされている人
避難区域となっていて、帰ることができない人
行方不明者の帰りを待っている人
私もこの9年を振り返ると、いろいろ変わったなと思いますが、
そんな気持ちで振り返ることができない人たちがいるということ忘れてはいけないなと思います。
そして、教育関係者であれば一度は、大川小学校に行くことをおすすめします。
たまに憎たらしいと感じるあの子も、今そこにいて、学校に来ていることに感謝の気持ちが湧いてきます。
学校が休校になり10日。
子どもたちがのびのびと学校で生活する姿は、平和の象徴だなと思います。
1日も早く、学校に活気が戻ることを
そして、震災に遭われた人たちの心の平穏が1日も早く取り戻せることを
月並みな言葉ですが、お祈り申し上げます。
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