教員の質とは ~人格編 現場が抱える問題③

教育全般

こんにちは。春名佑紀です。

昨日は、教員の質を担保する場所はどこかという話でした。
今までは、若手教員などの研修の場としてOJTを行う余力が学校現場にあったが、今はとても支えきれないというのが現状です。
しかし、大学での養成の内容は、大きく変わっておらず結局実践を積む場が、完全に修行の場となり、運よく周りの先生に恵まれるか、メンタルが強い人でないと残れないという状態になっています。

では、そもそも、「教員の質」とは何なのか?ついて考えていきたいと思います。

 

書く前に言うのもなんですが、「教員の質」テーマは、おそらく1記事だけでまとまるものではないと思います。
そこで、今日は「教員の質」を思い切って2つに分けて考えていきます。

2つとは、

①人格面

②スキル面

です。

なぜ、この2つに分けるかというと、よく教員の不祥事が起こると
「そもそもこの人は先生に向いていたのか?」
という話になります。

さらに、人はいいけど授業はイマイチといった、能力の面でも教員は評価されます。

そこでほんとにざっくりですが、この2つの側面から教員の質について考えていきます。

もちろん、この2つは様々な意味で関連しているので、完全に切り離せるものではないことも付け加えておきます。

教員の質  ~人格面

以前、「聖職者」などと言われていた教員ですが、今こんな呼び方をする人はいないし、自分を「聖職者」などと思っている教員もいないと思います。

しかし、子どもの前に立ち、その成長を見守る立場にある教員ですから、最低限の良識をもっていることは当然求められるでしょう。

目を疑いたくなるような服務事故や不祥事を目にするたびに、なぜ教員になったのか?とあきれてしまうようなこともあります。

とはいえ、教員は聖人君子ではありません。

もちろんある程度の倫理観は必要ですが、この「ある程度」というのが曲者で、今この「ある程度」の尺度がまちまちとなっています。

そこでこの「人格面」では、教員がもち合わせるべき「人格的な資質」とその育成について考えていきます。

 

一言に「どんな人格をもち合わせるべきか」といっても、これまた論じるのは難しいでしょう。

例えば、「真面目な人」がいいという意見があったとします。

それは、不真面目よりも真面目な人の方がいいと思う人は多いでしょう。
実際に、教員になろうという人は、真面目な方が多いです。

しかし、もし真面目が行き過ぎて、堅物だったり融通が利かないという人の場合は、かえって子どもたちの生活を窮屈にしてしまうこともあります。
実際に、学級崩壊をしてしまう先生の特徴として、「真面目過ぎる」「厳しすぎる」というのもあります。

それなら、適度に真面目で場合によっては緩めることもできる・・・というと急に難しくなります。しかもまた「適度」などといったあいまいなワードが出てくると、それこそ基準などバラバラです。

同じように、様々な特徴を同じように当てはめてみても、結局その基準は設定しにくいのです。

 

つまり、「教員の質」だとか「教員に向いている」などというものは、あたかも基準が明確にあるような言葉としてネットや世間一般的に使われていますが、特に「人格面における質」については、中身は全く共通しているものなどありません。

では、最低限「善悪の判断がつく人」という基準を設けたとしましょう。

でも、世の中の人だって、「魔が差して」犯罪を犯したりするわけで、根っからの悪人という人が一体どのくらいいるのでしょうか?

そうなると、服務などを絶対守る人、犯罪や不祥事を絶対犯さない人を見き分けるのは、それこそ至難の業のように感じます。

こう考えると、「こういう人が教員であってほしい」という人々や社会の願いはなかなか現場で反映しにくいということがわかります。

しかしこう書くと元も子もないので、私があえて「人格面における教員の質」というものを書くのであれば、

自分を客観的にみることができる人

向上心がある人

の2つだと思っています。

教員とは、広い視野をもつことが求められます。
特に今は、多くの価値観の中にさらされているので、自分の考えに固執したり、他の意見を取り入れられないという人は確実に取り残されていきます。

人に流されて生きることを勧めるわけではありませんが、柔軟性が必要な場面が多々あります。

もちろん、譲れない部分をもつことは大事ですが、それも含めて今の状況と自分の考えと周りの思いと様々な視点から物事を見ることができる人でなければ、身も心ももちません。

自分を客観的に見るということは、常に自分の立ち位置を確認するということです。

向上心と書くと、いつも自分磨きをしているというようにとらえる人もいるかもしれませんが、どちらかというと、自分の進む先を確認し歩を進めることができるというニュアンスが近いかもしれません。

つまり、この2つは車のナビに似ています。

GPSで捉えた自分の場所を確認し、行く先を確認する。そして発車する。

自分の行動をこのように振り返ることができる人であれば、自分の立場を見失い不祥事を起こすこともないだろうと思います。
こういうことは、心の隙間に入り込み、ふと自分を見失いかけたときに起こるものです。

つまりまとめると

自分メンテナンスができるか

ということです。

自分のメンタル面も、スキル面も、フィジカル面も全てひっくるめて自分の今の状態を把握できる人が今の教育の現場には求められています。

(「自分メンテナンス」については、また詳しく別の機会に話をします。)

 

では、次に、どうすればこの「自分メンテナンス」ができる人を育成できるかという点です。

これにも大きく2つの要素が必要です。

1つは環境

もう1つは、心の充実です。

環境とは、いわゆる働き方改革などの学校現場の改善です。
自分を見つめるとか、確認するとかは、時間や心にゆとりがないとできません。
なかなか今の現場では、そういう心のゆとりをもつことが難しくなっています。でも本当は、無理にでもそういう時間を設けるような強さも必要です。

この辺りは、教員に限らず、心理系の読み物などを参考にするとやり方が出てきたりします。が、環境を制度から整えていくことは教員の健康を守る意味でも必要な改革です。

もう一つの「心の充実」ですが、
これは別の言葉で言うと「自己肯定感」です。

自分を振り返るときは、心がフラットであること、中心であることが必要です。

なぜなら、自分を過大評価したり、逆に否定していたりすると、正確に立ち位置の確認ができないからです。

意固地になって自分ができる人間だと思うと、独りよがりな授業や学級経営をしがちになります。

逆に、卑屈な状態では、何をやってもダメだと思い込み、鬱になったりメンタルを壊してしまう危険性もあります。

このあたりのことは、また改めて記事を作成したいと思います。

 

今日のまとめとしては・・・

教員として必要な資質は、自分をメンテナンスすることができること。

でしょうか。

いかがでしょうか?
批判や反論があることを承知で書いていますので、もしご意見があったらいただけたらと思います。

ちなみに、この考えをまとめたレポートはこちらでダウンロードできます。
興味があれば、見てみてください。
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今日も、読んでいただきありがとうございました。