子どもたちの「生きる力」⑨ 自分で判断する力

教育全般

こんにちは。春名佑紀です。

前回で一応「生きる力」シリーズを終わりにしようと思ったのですが、
なんとなく消化不良もあり、内容が漠然としすぎたことを反省し、もう少し、「主体的」について掘り下げようと考えました。

内容としては、「主体的に生きること」をしていくと、必然的に様々なことができるようになるので、「主体的に生きる」が根幹であるということは言うまでもありません。

ただ、「主体的に生きている状態」とは、と聞かれるとちょっとわかりにくいかもしれないと思いました。

そこで今日のテーマは?

自分で判断する力

主体的に生きる話をしたときにも、少し出しましたが、

「自分の人生の主人公であることを意識する」

というような内容を書きました。

主人公って書くとちょっとかっこよくなっちゃうので、すんなり入っていかない人もいると思います。
私のようにRPG大好き人間は、急に開眼して「わかる!わかる!!」となりますが、
そうならない人もいますよね。

自分の人生の主人公として生きるということは一番わかりやすいのは、

自分の行動は自分で決めていることに気が付く

ということではないかと思います。
ほとんとの場合、自分の意志で行動をしています。
でも、残念なことに、自分の行動に責任を取れない人がいます。
こういう人の多くは、「自分が決めている」ということから目を逸らしてしまっている時です。

でも、人間はそう強い人ばかりではありません。
行動には必ず事前の確認があります。

例えばわかりやすく犯罪を犯す前の心理を考えてみます。

銀行強盗を考えたしましょう。

まず、どの銀行を狙うか
いつの時間帯を狙うか
どうやってお金を奪うか
単独犯か複数犯か
逃走経路は?
逃走手段は?
・・・

と考えたとしましょう。

でも、その前に考えることがありますよね?
それは

「銀行強盗をするのはいいのか?悪いのか?」

という、行動の判断を行うはずです。

どうしてもお金が欲しいと思ったときに、
人が取る行動は何も銀行強盗だけではありません。

地道に働くとか
誰かから借りるとか
宝くじを買うとか
株をするとか

他にもあるでしょう。

このときに誰が、「銀行強盗は楽だよ。」と言ったとします。

この時、「そうだ、銀行強盗をしよう!」
と思ったのは、本人ですよね。

この場合、もう犯罪ですからこの段階でこの方の判断はアウトですが、
こうやって誰かから何か言われて、その意見に乗っかるというのは、私たちの生活にはよくあることです。

しかし私たちは、ある行動の結果うまくいかなかった場合、そのきっかけにせいにすることがあります。
今回の場合では、「銀行強盗は楽だよ。」と言った人のせいにするということです。

この事例を見て、そうだ!と思う人はいないと思いますが、
私たちの周りには、何の信ぴょう性のない情報がありふれています。

ネットの普及で、出回る情報量は格段に増えました。

その中で、本当に正しいものと実は間違っているもの、さらには人をミスリードするためのトラップ情報なども含まれています。
フェイクニュースも、人をからかうためのいたずらです。

このように、私たちは今まで以上に、

「自分で判断する」

という場面が増えてきています。

先程の犯罪のようにどんなにそそのかす人がいたとしても、
それを実際に行動した人間に非があります。
もちろん、様々な場合がありますが、大人であれば「自分で判断」してそれを回避する方法を見つけなければなりません。

しかし、この「自分で判断」というのは、口で言うほど簡単ではありません。
そのため、人はできれば「人のせいにしたい」と思います。
人のせいにするのはある種の防衛反応です。

よく子どもが、親に何かを買ってほしい場合、
「クラスのみんながもっているよ。」
というあれです。
実際は、その子の周りの数人しかもっていないということが多いです。

この例はかなり「かわいい事例」ですが、
「誰かがやっているから」とか
「偉い人が大丈夫って言ったから」とか
言い訳をして自分の行動の責任を少しでも減らしたいと思うのは人間の性です。

でもあえてきついことを言えば、

あなたの人生の責任はあなたしか取れません。

たとえ
どんな情報に乗っかろうが、
どんな権威ある人が言った内容だろうが、
それをしないと殺されるような状況だろうが、

選んで行動したのは自分です。

という、気持ちをもっていないとこれからの時代は何かに流されてしまいます。

今、目の前にある情報をどう利用するかを考えることができるのが私たち人間に与えられた力です。

しかし、現代は、情報が溢れていてその真偽を確かめるだけでも一苦労です。
でも、だからこそ、自分で考えるということを放棄してはいけないのではないかと思います。

先程のRPGの話の戻しますが、
RPGでは、ゲームのキャラクターの脳(思考)を司るのはプレーヤーです。
プレーヤーの判断次第で、キャラクターは敵を倒すこともできるし、死んでしまうこともあります。

どうすればゲームにある問題をクリアして、次のステージに進むかを決めるのはプレーヤー次第。

これを人間に置き換えるなら(失礼な話ですが)、自分の体を動かす主体は、自分の脳(思考)。

そういう意味で私たちは、私というキャラクターを動かくプレーヤーでもあるわけです。

 

 

子どもたちを見ていると、「自分で考えること」をめんどくさいを感じている様子に出くわします。
確かに、自分で考えてとなると、行動に責任が生じるのでめんどくさい時もあります。

よく親や教師が
「〇〇をした方がいい」

と子どもに助言した際に、子ども違うことをして、大人が言ったことが正しかった場合、

「ほら、言ったでしょ?」

といってしまうことがあります。

これは、大人側の理屈としては、
「事前に情報を伝えたり、良い選択肢を提示しておくことで、危機を回避させたい」
という思いが込められています。
でも、それを子どもが従わなかったときに
「ほら、言ったでしょ?」
といった瞬間に、子どものためではなく、従わなかった子どもへの追い打ちになるのです。

もちろん、子どもによっては、大人に反発してますます言うことを聞かないという子もいますが、
最近では、そうなると次はおとなしく従ってしまう子どもの方が多いように見えます。

失敗を異常に恐れる社会の風潮もそれに拍車をかけているように思うのです。

普段から子どもが自ら考え、判断し、行動するということを見守ってあげる大人の度量が必要です。

時には歯がゆく、時にはイライラすることもありますが、
いつまでも子どもの道しるべになれるわけではありません。
そして、子どもたちには、私たちがもっているものとはまた違った世界で羽ばたく可能性をもっています。

学校教育も、「自分で判断する」子どもを受け入れるゆとりをもっていきたいものです。

そうなると、ゆとりをもつべきは、教育ではなく学校かもしれませんね。

 

「自分で判断」

いかがでしたか?
今の私には、これまた耳の痛い話です。
正直、自分で判断してここまできた今の人生に対して、自信をもって自慢できるところまで言っていないので、私自身もおっかなびっくり進んでいますが、これでいいのだとも思っています。

自分の人生に責任をもてることが最も大切で、最も幸せな生き方だと思うので。

 

あなたは、自分の人生の主人公になっていますか?
応援しています。

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